前編:「2千円の米に並ぶ国」─ “ありがたさ” の裏にあるもの

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◆ 序章:「ありがたい」という言葉に感じた違和感

2025年6月。ある報道映像に、私は深い違和感を覚えました。


それは、政府が放出した「備蓄米」を買い求めて、長蛇の列に並ぶ人々の様子を伝えるものでした。

販売されたのは、5キログラムで2,000円という “破格” の米。報道では「市場価格の半額以下」と紹介され、買い求めた人々のインタビューには、「ありがたい」「助かる」「おいしいらしい」といった言葉が並んでいました。

 

その表情にはどこか安堵すら見て取れ、「この価格で買えるなんて、ほんとうにありがたい」という声に、メディアも好意的なトーンで呼応していました。


けれども私は、その“ありがたさ”にこそ、奇妙な違和感を覚えたのです。

 

「これは本当に、“よい制度” の姿なのだろうか?」


“ありがたい” という言葉が何度も繰り返されるなかで、私の中にはむしろ、「それは本当に“自然な状況”なのか?」「なぜ、今それをありがたく感じなければならないのか?」という問いが強く浮かび上がってきました。


この違和感は、単なる感情的な反発から生まれたものではありません。

 

経済学──とりわけマクロとミクロの基本的な仕組みや、制度設計の力学を理解する立場からすると、あの映像はまさに「制度と市場の歪みが可視化された瞬間」だったのです。

 

◆ 第1章:報道の中の“日常風景”と、それが映す異常

報道映像は、整然と並ぶ人々の姿を映していました。

開店前の店舗前にできた列。整理券を配る係員。そして購入後に笑顔でインタビューに応じる高齢者や主婦。


「こんなに安くてありがたいわ」「普段なら高くて買えないから助かる」

そんな声にナレーションが被さり、「家計を支える救世主のような制度」という文脈が自然と形成されていきます。


この構図は、メディアにとっては “善意のストーリー” として成立します。

─安く買いたい国民。支援する政府。感謝する消費者。

一見すると、完璧な “ウィン・ウィン” の物語です。


けれども、その報道にほんの少し引いた視点を持てば、すぐに見えてくるはずです。

この状況自体が、すでに“非常時”なのではないか?

なぜ“ありがたい”という言葉が、こんなにも自然に響いてしまうのか?


本来、「備蓄米」とは “非常時” に備えるための制度です。

平時の暮らしの中で「備蓄された非常用の米を買わなければならない」という状態が日常化し、それに“ありがたさ”を感じてしまっているという事実こそが、すでに制度が機能不全に陥っていることの証左ではないでしょうか。


国家が備える非常用の食料を、国民が日常的に消費する。

それを「ありがたい」と感じる。


この構図は、どこか戦時下や危機下の配給制度を想起させます。

だが、そこには「危機」の宣言も、「説明責任」もありません。

あるのはただ、「お得でうれしい」という空気だけ。

 


このとき、「ありがたい」とは「制度の歪みを見ないための“感情の防衛装置」になってしまってはいないでしょうか?

◆ 第2章:2,000円という価格の裏側

スーパーで買えば、標準的な5キログラムの米は、いまや4,000円台が相場です。

銘柄米であれば5,000円を超えることも珍しくなく、特売品でも3,500円を下回ることは滅多にありません。

 

そんな中、「2,000円」という備蓄米の価格は、市場価格の半額以下。

それも、数量限定ではあっても、“国が公式に放出する米” として正面から登場するわけです。

 

 

当然ながら、「安い」と感じるのは自然ですし、「並んででも買いたい」と思う人がいても何ら不思議ではありません。

 

─しかし、その価格は一体、どうやって成立しているのでしょうか?

 

 

価格というものは、私たちが日々目にしているように単純な「数字」ではありません。

それは、生産・流通・保管・販売、すべてのコストとリスク、そして需給バランスと制度設計が反映された、複雑な構造物です。

 

2,000円という備蓄米の価格には、本来含まれているはずの多くのコストが “見えなくなっている” のです。

 

 

まず、この米はもともと「備蓄」のために国が買い入れたものです。

市場から政府が一定量を買い上げ、数年間保管したのち、「ローテーション」の名目で放出されます。

 

 

その買い入れ価格には、当然ながら生産者への一定の保証価格が含まれており、保管には税金が使われています。

 

倉庫業者に支払う保管費、品質維持のための設備、人件費 ─それらはすべて、“既にどこかで” 税金として支払われているコストなのです。

 

つまりこの2,000円は、純粋な “原価に基づいた価格” ではなく、「すでに費やしたコストを、いま価格で回収する必要のない状況」で設定された数字なのです。

 

 

この点こそが、“安さ” の背後にある国家的スキームの肝です。

通常の米には反映されている「実質コスト」が、備蓄米には意図的に “消えている” 。

 

この構造を、消費者は基本的に知りません。

「政府が出しているから安くて当然」「余ってるものだから安くてもいい」─そんな印象だけが流通し、価格に含まれる意味は見えなくなっていきます。

 

 

しかし、ここで強調すべきことがあります。

 

この「安さ」は、誰かが負担した結果として成立しているという事実です。

 

  • 国が農家から米を買い取る

  • 長期間にわたり保管する

  • 期限が近づくと“放出”という名で市場に出す

  • 価格はコスト回収ではなく、“適当な売り切り価格”として決定される

 

これを繰り返していくと、価格というものの信用そのものが崩れます

 

本来、価格は情報であり、「市場がどう機能しているか」を表す重要な信号です。

 

ところが、こうした政府主導の放出が常態化すれば、消費者にとっては、「安くなるのを待っていればいい」「正規価格は高すぎる」「市場の価格は信用できない」という錯覚が生まれ、市場の信頼性が大きく損なわれていくのです。

 

 

このような事態を、行動経済学では「価格のアンカリング効果(Anchoring Effect)」と呼びます。

 

 

『価格の心理学』(ウィリアム・パウンドストーン著)でも詳しく述べられている通り、人間は最初に提示された価格や条件を “基準” として認識し、それ以外の価格に対する評価を相対的に決める性質があります。

 

 

つまり、政府が「5kg=2,000円」という破格の価格を設定した時点で、それを目にした消費者の中には、「これが米の妥当な価格」という認識が生まれ、その後の価格判断すべてに影響を及ぼすのです。

 

 

その結果、正規流通米の価格が「高く感じる」ようになり、農家の直販価格が「ぼったくりに見える」とさえ思われてしまう。

 

─こうして、「感謝される制度」の陰で、「本来の市場機能」がゆっくりと損なわれていく。

 

 

 

この2,000円の “ありがたい価格” は、実は市場経済にとって極めて高い代償を伴う構造物なのです。

 

◆ 第3章:そもそも「備蓄米」とは何か?

2,000円という価格が、経済的にいかに不自然で、制度的に特殊な条件下で成立しているかを確認したところで、次に立ち返るべき問いがあります。

 

 

─そもそも、「備蓄米」とは何なのか?

 

 

私たちはこの言葉を、“非常時に備えた安心の象徴” のように受け止めがちです。

 

災害時に供給される食料、あるいは飢饉や戦争への備え。そうしたイメージが先行し、そこに国家の「安全保障機能」を重ねて見る人も多いでしょう。

 

もちろん、制度の建前としてもその通りです。

農林水産省が明示する備蓄米制度の目的は、以下の3点に集約されます。

 

  1. 災害などの緊急時に国民に食料を安定的に供給すること

  2. 米の需給と価格の安定を図ること

  3. 安全保障上の観点から、一定の食料備蓄を維持すること

 

一見して、どれも国民生活を守るうえで納得のいく目的です。

 

問題は、この制度がその目的通りに運用されているか?という点です。

 

実態としての備蓄米制度は、これらの理想とはやや異なる様相を呈しています。

 

備蓄米は国が毎年一定量を市場から買い入れ、指定保管倉庫で数年間保存されます。

保存期間は原則として5年間とされ、その期限が近づくと「入れ替え」の名目で “放出” されるのです。

 

この「放出」がくせ者です。

 

 

本来、備蓄米は「使わずに済む」ことが望ましい資源であり、“いざ” というときに使うべきものです。

 

ところが、放出の頻度・規模・タイミングが “制度的にあらかじめ織り込まれている” ことから、もはやそれは「備え」ではなく、定期的に市場に流れる“準市場商品”のような位置づけになっています。

 

 

言い換えれば──

 

備蓄という名を借りた、農政の出口処理装置。

 

米の生産量が需要を上回り、需給ギャップが生じたときに、過剰な供給を市場から退避させるために政府が買い上げる。これは需給安定政策の一環として合理的に見えるかもしれませんが、その構造が何十年にもわたって固定化されると、次のような問題が生じてきます。

 

  • 毎年の備蓄計画が前提化し、「市場の需給調整」ではなく「制度の維持」が目的化する

  • “放出される前提” で設計された制度は、もはや「緊急時の備え」としての機能を失っていく

  • 安定供給や安心を超え、制度の継続そのものが目的化していく

 

このような状態は、制度経済学でいうところの “制度の自己目的化” です。

 

 

 

ノーベル経済学賞を受賞したダグラス・ノースは、その著書『制度はどのように進化するのか』の中で、制度は一度形成されると「形式としての合理性」を保ちながら、実質的には社会の進化に適応できなくなる危険をはらむことを警告しています。

 

 

彼の議論を援用すれば、備蓄米制度はまさにその典型です。

 

  • もとは「不足に備える」ための制度

  • しかし、「余剰を処理する」ための装置へと転用

  • やがて「農政的利害の調整機構」として制度が温存

  • その末に、「放出されて当たり前」「消費されて当然」の状態へ

 

ここに至るまで、制度の “形式的な正当性” は守られたままですが、

その内実は、目的と手段が逆転した制度疲労の構造に変わってしまっているのです。

 

 

加えて、この制度にはもう一つの「構造的な矛盾」があります。

 

 

それは、「備蓄されていることで安心」が生まれるはずの制度が、

「放出されなければ困る」という前提で組まれているということです。

 

 

本来、備蓄は “非常用” のストックであるべきなのに、

それが “定期的に消費されること” を前提としたサイクルになっている。

 

つまり──

 

“備え” ではなく、“定期供給の一部” になっている。

 

これが、日本の備蓄米制度の最大の歪みです。

 

 

こうした構造の中で、“ありがたい備蓄米” が登場するのは、

制度の本来目的が見失われた結果にほかなりません。

 

 

 

次章では、この「ありがたさ」そのものが、制度疲労を覆い隠し、制度を延命させるための感情的装置となっていくプロセスについて、より深く掘り下げていきます。

 

◆ 第4章:備蓄米に並ぶことの社会心理とその本質

人は、なぜ「ありがたい」と感じるのか─。
それが本当に、自発的な感情なのか、あるいは何か別の “仕組み” によって引き出されているのか。

 

備蓄米の放出をめぐる一連の報道を見ていて、私が特に強く感じたのは、そこに現れていた “ありがたさ” が、極めて制度的で、同調的で、そして抑圧的なものであったということです。

 

「ありがたい」という感情の条件反射

 

「5キロで2,000円? 安いじゃないか」

「政府が出してくれるなら、ありがたくいただこう」

「食費が浮いて助かる」

「贅沢は言えない。ありがたいことだよ」

 

これらは、報道の中で繰り返された言葉です。

どれも、言葉としては何の攻撃性もなく、前向きで協調的で、聞く者の心を和ませる “美しい市民意識” のように響きます。

 

しかし、これを裏返して見れば──

 

「それ以外に選択肢がない」

「文句を言っても仕方がない」

「これ以上を求めるのは、わがままだ」

 

という、諦めや抑圧を内包した感情である可能性があるのです。

 

このような「ありがたさ」は、経済的な合理性や選択の自由から発生したものではなく、

むしろ、制度的に強いられた感情の自己正当化であるように思えてなりません。

 

“感謝” は制度の正当性を延命する

 

備蓄米に限らず、政策制度というものは、とかく「ありがたい」ものであることを求められます。

 

たとえば、

 

  • 給付金制度

  • 補助金政策

  • 公的価格支援

  • 行政サービスの無料提供

 

どれも「ありがたい」と感じることを前提に設計されており、

その “感謝の声” をもって制度の正当性を社会的に補強する構造になっています。

 

これはある意味で、制度の “感情的延命装置” です。

どんなに制度に不備や矛盾があっても、「ありがたい」と言ってもらえれば、それ以上深くは追及されない。

 

感謝が多ければ多いほど、制度の仕組みや財源や持続可能性は問われなくなっていく。

つまり、“ありがたい”という言葉は、制度の評価を停止させるための最も強力な静音装置なのです。

 

“感謝できる国民” であることのプレッシャー

 

では、なぜ多くの人々はこうした制度に対して “ありがたい” と感じるのでしょうか?

 

 

もちろん、生活が苦しい状況の中で「安く米が買える」という事実は、大きな安心材料になります。しかし同時に、その背後には、“感謝できる国民” であろうとする社会的プレッシャーがあるのではないかと、私は考えています。

 

  • 「文句ばかり言わず、感謝しなさい」

  • 「国の政策なんだから、ありがたく思わないと」

  • 「並んでまで買ったんだから、大事に食べなきゃね」

 

こうした言説が当たり前に語られる社会では、疑問を口にすること自体が“非国民”のように扱われる空気が生まれます。

 

そしてこの空気は、感謝という行為そのものを、内面の自由な感情ではなく、外部から強いられた義務へと変質させてしまうのです。

 

統治される「感謝」──感情を支配する制度

 

ナオミ・クラインは著書『市場と権力』の中で、「自由市場」という名の下に進められる制度改革や政策介入が、いかにして人々の生活と感情を制御していくかを、ショック・ドクトリンという概念で描き出しました。

 

社会に “ショック” が走ったとき─経済危機、災害、戦争─人々は平常時では受け入れがたい政策や制度に対して、「ありがたい」「仕方がない」「これで助かる」と受け入れてしまう。

 

それは、外圧によって押し付けられるものではなく、自らの内面から“自然と湧き上がる”ように設計された、統治としての感情制御です。

 

備蓄米の放出に対する「ありがたさ」も、これと同じ構造をはらんでいます。

 

  • 高騰する物価

  • 下がらない賃金

  • 不安定な雇用と将来不安

  • 見えない“制度の出口”

 

そうした漠然とした社会不安が、備蓄米の「安さ」と「国からの支給」という構図に出会ったとき、「ありがたい」という感情が、自動的に発動されるのです。

 

この感情こそが、制度に対する批判を封じ、服従を内面化させる鍵となる。

 

行列という“服従の儀式”

 

もうひとつ見逃せないのは、「並ぶ」という行為そのものです。

 

列に並ぶという行動には、経済的動機(安く手に入れたい)と同時に、制度に対して “従う” という身体的メッセージが含まれています。

 

  • 配給の列に並ぶ

  • 整理券をもらう

  • 制限付きで購入する

  • 「ありがたい」と口にする

 

この一連の流れは、形式的には自由な購買行動のように見えながら、実質的には統制された経済圏の中での “儀式的な服従” に近い。

 

ここにはもう、「自立した消費者」の姿はありません。

あるのは、「制度に従うことを受け入れた生活者」の姿です。

 

 

このように見ていくと、備蓄米をめぐる “ありがたさ” とは、単なる感謝ではなく、制度的支配を内面化するプロセスとして、非常に機能的に組み込まれていることがわかります。

 

 

次章では、こうした “ありがたさ” の社会的構造が、経済合理性の破壊や農業の継続性にも深刻な影響を与えていることを、ミクロ経済の視点から掘り下げていきます。

 

◆ 第5章:ミクロ経済の視点から見る「制度による市場破壊」

これまで見てきたように、備蓄米の放出には感情的・制度的な側面が多く含まれています。しかしそれだけではありません。

 

この制度が実際に市場に与えている影響を、ミクロ経済学の視点から見直すことで、より具体的で深刻な問題が浮かび上がってきます。

 

 

市場価格の信頼性が損なわれる

 

まず、最も直接的な影響は「価格破壊」です。

 

 

備蓄米が5キログラム2,000円で販売されることで、消費者の多くがその価格を「米の適正価格」として認識してしまいます。これは前章でも述べた「アンカリング効果」にも関係しますが、ここではそれが他の市場プレイヤーに与える影響に焦点を当てます。

 

 

たとえば、ある地域の農家が、手間をかけて減農薬の米を作り、直接販売で5kg 3,800円という価格を設定していたとします。

 

そこに、政府から「備蓄米(非銘柄米)」が2,000円で供給されたら、どうなるでしょうか?

 

 

消費者はこう言います。

 

 

「いや、別にそこまでのこだわりはないから。こっちでいいよね」

「3,800円の米なんて、ちょっと高すぎる気がする」

 

 

─結果、正規の農家が構造的に「高い」「売れない」とされる圧力を受けることになります。

 

 

本来であれば、価格は品質や流通条件、産地、安心感といった“付加価値の総合評価”として決まるものですが、そこに“制度価格”が割り込んでくると、すべての価格形成が歪められるのです。

 

 

インセンティブが崩壊する

 

ミクロ経済学では、プレイヤー(この場合、農家)がどう行動するかは、インセンティブ(誘因)によって決まると考えます。

 

農業においてのインセンティブとは、

 

  • 手間をかければ価格に反映される

  • 品質を上げれば売れる

  • 顧客との関係性を築けば安定収入につながる

 

といった「努力と報酬の連関」によって支えられています。

 

 

ところが、そこに「定期的に安価な政府米が流入する」という条件が加わると、

 

  • 正直者が馬鹿を見る

  • 品質より価格で選ばれる

  • 安さの陰に補助金や保管費があることを説明しても伝わらない

 

という状況が広がり、モチベーションが失われていくのです。

 

 

農家は当然ながら、コストの裏に生活があり、技術と誇りがあり、地域との絆があります。

 

それらが「制度的に値崩れする」環境にさらされ続ければ、やがて“続けよう”という意志が途切れてしまいます。

 

そしてこの構造は、何よりも担い手の世代交代を困難にするのです。

 

 

「価格外部性」の発生

 

こで、もう一つの経済学的な概念を紹介しておきます。それが「外部性(externality)」です。

 

外部性とは、ある市場取引が、取引に関与していない第三者に影響を与えることを指します。

例えば、工場が排出する煙によって近隣住民が健康被害を受ける──これは「負の外部性」の典型です。

 

では、備蓄米の放出はどうか。

 

  • 本来、自由市場で取引されている米に、政府が “非市場的条件” で米を供給する

  • その影響で、正規農家や中小流通業者の売上が減少し、価格競争が激化

  • 結果、経営が圧迫され、市場全体の安定性が失われる

 

これはまさに、「制度から生まれた負の外部性」と言えるでしょう。

 

 

通常の経済活動であれば、こうした外部性に対しては「課税」「補償」「規制」などで是正を試みます。しかし、備蓄米制度はあくまで “国民のための善意の仕組み” として設計されているため、その外部性が制度的に認識されにくいという構造的な盲点があります。

 

 

見えない “敗者” を生む制度

 

ミクロ経済の視点で厄介なのは、制度によって「価格競争の敗者」が静かに排除されるという点です。

 

備蓄米の放出により、直接的に売上を失う農家がいたとしても、誰もその損失を補填してはくれません。

 

  • 「努力が足りなかったのでは?」

  • 「価格に見合う品質だったのか?」

  • 「顧客との関係づくりが甘かったのでは?」

 

そんな言葉が、形式上は正しい “市場の掟” として語られる一方で、

その市場はすでに「制度価格」という異物によって侵食されている。

 

これは、まるで重力が変わった空間で競技をしているようなものです。

どれだけ正しく努力しても、ゲームのルールそのものが傾いているのです。

 

そして、敗者たちは静かに市場から退場し、やがて農地は荒れ、地域の経済基盤が失われていく。制度の副作用は、最も声の小さな場所から現れるのです。

 

この章で見てきたように、備蓄米の制度的放出は、表面的には「消費者にやさしい政策」のように見えながら、その実、市場に深刻な損傷を与える構造を持っています。

 

それは、「ありがたい米」の裏で、静かに農業者の経済的な息の根を止めていくプロセスです。

 

次章では、こうした構造がなぜ制度として正当化されるのか、そしてなぜ報道や世論がこれを批判せずに受け入れてしまうのか、メディアと制度の共犯関係に焦点を当てて考察します。

 

◆ 第6章:「ありがたさ」を生むメディアと制度の共犯関係

ここまで見てきたように、備蓄米制度はその制度設計、価格形成、そして市場への影響において、表面的な“ありがたさ”とは裏腹に、深刻な構造的問題を抱えています。

 

 

ではなぜ、こうした制度が世論に支持されてしまうのでしょうか?

 

なぜ、報道では常に「助かる」「ありがたい」という言葉ばかりが流され、制度の根本に対する疑問は語られないのでしょうか?

 

 

その鍵は、メディアと制度が暗黙裡に築いてきた“共犯関係にあります。

 

 

「生活者の味方」としての演出

 

テレビや新聞が備蓄米の放出を報じるとき、よくある構図があります。

 

  • 長蛇の列に並ぶ高齢者や主婦

  • 「助かる」という表情とともに語られる感謝の言葉

  • 店舗スタッフや行政担当者による “善意” の対応

  • ナレーションで語られる「物価高への一手」「国の支援策」

 

このパターンは、視聴者にとって安心感と共感を生みやすい「絵」として成立します。

 

 

重要なのは、ここに制度への疑問や批判が一切含まれないという点です。

 

 

「本当にこの制度は適正に機能しているのか?」

「価格はどう決まっているのか?」

「これによって農業や市場はどう影響を受けるのか?」

 

 

─こうした視点は報道から排除され、「ありがたい制度」「善意の行政」「助かる国民」という構図だけが強調される。

 

 

この描き方は、情報の中立性というより、制度の “物語” を補完するメディア装置になっているのです。

 

 

「正しさ」が制度に集中する社会構造

 

メディアが制度を批判しにくい背景には、日本社会に根強い制度信仰があります。

 

  • 国が決めたことなら間違いないだろう

  • 税金でやっていることだから文句を言いづらい

  • ありがたいと思うのが「常識人」の態度だ

 

こうした空気の中では、制度を疑うことが “異端” になりやすく、

メディア側も「過剰な批判」と受け取られることを避けがちです。

 

 

むしろ、「制度がよく機能していること」を “証明する場面” を切り取り、

それを視聴者の感情に訴えかける形で伝える方が、受け入れられやすい。

 

 

こうして、報道は制度の透明化を促すどころか、制度の正当性を感情的に補強する “感謝装置” として機能することになるのです。

 

 

「消費者の声」が制度の盾になるとき

 

もうひとつ、制度批判が難しくなる構造があります。

 

それは、“消費者の声” が制度の最大の擁護材料として使われるという構図です。

 

  • 「ありがたいと思っている人が大勢いる」

  • 「実際に生活に役立っている」

  • 「助かったと言っているのに、水を差すな」

 

─こうした“民意”は、制度の問題点を指摘する者に対して「冷たい」「理屈っぽい」「共感がない」といった逆風を吹かせることになります。

 

 

つまり、感謝する人々の声が、知らず知らずのうちに制度の批判を封じる “感情的な盾” になっているのです。

 

 

ここには、「生活者を守る制度だから、問うべきではない」という前提が無意識に働いています。

 

ですが、それこそが最も危険な思考停止です。

 

 

誰のための制度なのか?

 

本当に問うべきは、「この制度は誰を守っているのか?」という根源的な問いです。

 

  • 感謝しているのは、制度の表層に触れた “いま、困っている人たち” かもしれない。

  • しかし制度の裏側で、圧迫され、失われている人たちは声を上げる場すらない。

  • メディアは果たして、その “見えない側” を伝えているか?

 

現代の情報環境では、何が「報道されるか」以上に、「何が報道されないか」が極めて重要です。

そして、報道されないことで制度の副作用は “存在しないもの” として扱われ、制度は延命されていきます。

 

制度は、批判されることで進化する。

にもかかわらず、“感謝”という空気が、制度の点検を阻んでいるとすれば、

それはメディアもまた、制度の問題に加担しているということに他なりません。

 

 

次章では、こうした制度・メディア・消費者の構図を踏まえた上で、

あえて「私は2千円の備蓄米を買わない」という選択に込めた思い、

そして“買わない”という行為がもつ社会的な意味について掘り下げます。

 

◆ 終章:「買わない」という小さな抗いの意味

私は、2千円で販売されている備蓄米を買いません。

それは、味の問題ではありません。

価格の問題でもありません。

 

そして何より、「ありがたい」と思えないからでもありません。

そうではなく、「ありがたい」と思わされる構造そのものに、深い違和感を覚えるからです。

 

 

“買わない” という消極ではない選択

 

私にとって、「買わない」という選択は、制度に対する“静かな抗議”です。

 

  • なぜこの制度があるのか

  • なぜこの価格で出せるのか

  • なぜ報道では感謝しか語られないのか

  • なぜ人は疑問を飲み込んで列に並ぶのか

 

─そうした問いを、自分自身に投げかけ続けるために、私は買わない。

 

 

それは、自分の感覚を麻痺させないための、小さな意思表示です。声を荒らげて制度批判をするでもなく、SNSで賛否を争うでもなく、ただ一人の生活者として、「その制度に乗らない」という選択をする。

 

 

この選択は、経済学的には市場行動の一部です。

 

そして社会的には、制度に対する「参加拒否」の一形態でもあります。

 

 

消費は、“黙って従う”ことでもある

 

人は、買うことで制度を支えることがあります。

逆に、買わないことで制度への違和感を表明することもできます。

 

 

普段私たちは、買い物を「経済的判断」だと思いがちです。

お得かどうか、必要かどうか、美味しいかどうか。

 

 

けれども、本当は「買うかどうか」には、倫理的判断も含まれているはずです。

 

その商品が、どのような仕組みのもとに流通しているのか。

その背景に、誰の負担や痛みがあるのか。

 

それを知った上で、自分はその流れに “加担するかどうか” を選ぶことができます。

 

 

それが消費者としての、自律的な選択であり、

まさに私たちが「経済人」であるということの本質なのです。

 

 

声なき人たちのために、「違和感」を差し出す

 

備蓄米の問題の本質は、米の価格ではありません。

 

それを可能にしている制度と感情の構造にあります。

 

その構造の中で、声を上げることが難しい人たちがいます。

 

価格競争に晒される農家。

制度に飲み込まれる地域経済。

制度の変化に抗えない弱い立場の流通業者。

 

そして、「ありがたい」と言いながらも、本心ではどこか引っかかっている消費者たち。

 

 

私は、そうした「言葉にならない違和感」に対して、

一人の経済人として、“買わない”という行動で共鳴したいと思うのです。

 

 

「ありがたい」と思う前に、「なぜありがたいのか」を問う社会へ

 

この連載の第1回を通じて私が伝えたかったのは、制度を安易に信じ込むことの危うさでも、国策に従うことの愚かさでもありません。

 

 

そうではなく、

 

「ありがたい」と思ったその瞬間に、

「なぜ自分はそれをありがたいと感じたのか?」

「その感情は誰かに操作されていないか?」

「その背後に隠れている犠牲はないか?」

 

──そうした問いを、一度立ち止まって考える感性こそが、

これからの日本社会にとって、最も重要な “市民的知性” になるだろうということです。

 

 

 

制度は、設計し、運用され、やがて疲弊し、更新されていきます。

 

問題は、それが “ありがたさ” のうちに麻痺していくことです。

 

 

そのとき、誰かがそっと「違和感」を差し出すことで、

制度の再点検が始まるかもしれない。

 

 

私は、自分のその役目を、「買わない」という静かな選択に託したいのです。

 

これが、私が2千円の備蓄米を買わない理由です。

 

 

次回は「後編:安さの正体 ─価格は誰が決めているのか」と題し、制度価格と市場価格の違い、その歴史的背景と国家の介入構造について掘り下げていきます。

 

どうぞ、引き続きお付き合いください。