
#人材ラベリングの違和感 #キャリアの主語は私 #人的資本経営 #自分らしい働き方 #言葉の力 #〇〇人材に疑問を #評価社会の構造 #主語を取り戻す #社会構造批評 #問いを立てる力 #人間中心の組織 #人は材じゃない #働き方の未来 #視点の権力 #ラベルに抗う思考
第1章:あふれる「〇〇人材」─ 便利すぎる言葉の不気味さ
ここ数年、「〇〇人材」という言葉を見かけない日はない。
DX人材、AI人材、副業人材、越境人材、Z世代人材 ─そのリストは年を追うごとに増殖している。
一見すると、こうした言葉は社会の変化や企業のニーズに応じた、合理的なカテゴライズに見えるかもしれない。だが、私はこの「〇〇人材」という表現に、どこか薄気味悪さを覚えてならない。
それは単に言葉の使い回しに飽きたからではない。
その言葉の奥に「誰かの都合」が透けて見えるからである。
第2章:「人材」という言葉の構造──語り手は常に「上から」である
「〇〇人材」という表現は、一見中立的なカテゴリのように思える。だが、その言葉を使うのは、常に「人を評価する側」だ。
たとえば、こんなセリフを思い出してみてほしい。
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「うちはまだDX人材が足りない」
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「副業人材をもっと活用すべきだ」
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「AI人材の採用が今後の鍵だ」
これらはすべて、「組織」や「制度設計者」が、「人」を「使えるかどうか」という視点で語っている。つまり「〇〇人材」とは、誰かの役に立つ機能を持った“人間”のことを、「材」として定義する言葉なのだ。
このとき、語り手の主語はこうだ。
「私たちには、こういう人材が欲しい」
そこには「私は何をしたいか」「どう生きたいか」という本人の視点が、まったく存在しない。
第3章:「語られる人」と「語る人」の非対称性
この「〇〇人材」という言葉が気味悪いのは、語られる人間が「主語になれない」構造にある。
たとえば、行政が「2030年にはAI人材が85万人不足」と言うとき、それは「だから育成しなければならない」という文脈で語られる。
企業が「越境人材を採用したい」というとき、それは「課題解決の鍵になる」からだ。
だが、そこにいる「人」が、何を望み、どう生きたいかという問いは、そもそも想定されていない。
この構造は、まるで市場で取引される素材や部品と同じだ。
「どれだけ役に立つか」「コストに見合うか」「導入が簡単か」
そのようにして、人は測定され、分類され、評価される対象になっていく。
そして恐ろしいのは、それがあまりにも「自然な語り口」として浸透していることだ。
第4章:自己規定のラベルとしての「〇〇人材」─同調圧力の装い
さらに問題は、こうしたラベルが個人の内面にまで浸透している点だ。
いまや多くの人が、自分自身をこう語るようになった。
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「自分はまだDX人材になれていない」
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「副業人材として価値を高めたい」
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「これからは越境人材の時代だから、自分もそうならなきゃ」
ここにあるのは、自分自身を「誰かの評価基準」で測る姿勢だ。
「〇〇人材になる」という表現は一見ポジティブに聞こえるが、裏を返せば、他人の定義に合わせて自分を整形しようとしているにすぎない。
まるで「こんな人材が求められています」という広告のテンプレートに、自ら当てはまりに行くようなものだ。
第5章:「なりたい自分」から「求められる人材」へのすり替え
これは非常に危うい流れである。
なぜなら、それは主体の喪失を意味するからだ。
本来、キャリアや生き方とは「自分が何をしたいか」「どんな人生を送りたいか」を起点に考えるべきものだった。
だが、「〇〇人材」という言葉に囲まれると、発想がこう転換してしまう。
「自分は、どの人材枠に当てはまるだろうか?」
「市場価値のある人材にならなきゃ」
こうして、「なりたい自分」から「使われる自分」へと、自己認識がすり替えられていく。
第6章:静かな暴力 ─「視点」が社会を形作る
ここで強調しておきたいのは、言葉は単なる記号ではない、ということだ。
言葉は、世界の切り取り方であり、現実の構築手段である。
「〇〇人材」という言葉が社会にあふれるということは、
それだけ社会が人を「使う視点」で物事を捉え始めている証拠である。
それは「役に立たなければ存在価値がない」と言っているのと、限りなく近い。
この視点の偏りは、やがて社会にこうした静かな圧力を与える:
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高齢者は「労働生産性の低い人材」とみなされ、
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若者は「学習段階の未完成な人材」とみなされ、
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障がい者は「配慮が必要な非効率人材」とみなされる。
そして、「評価されない人材」=「価値のない存在」という構図が、知らぬ間に刷り込まれていく。
第7章:「〇〇人材」を語る前に、主語を取り戻す
ここまで来ると、私たちは問い直さなければならない。
「 “〇〇人材” とは、誰が、誰のために使っている言葉なのか?」
「それは、人間の可能性を広げる言葉なのか? それとも縛る言葉なのか?」
答えは明らかだ。
この言葉は、あまりに「使う者」の都合が透けすぎている。
だからこそ、私たちは「人材」という言葉を使う前に、
もう一度、“主語”を「私」に戻す必要がある。
私は、何を望んでいるのか。
私は、どんな仕事をしたいのか。
私は、どんな社会に関わりたいのか。
このように、意志と希望の言葉で語られる人間の姿は、「〇〇人材」というフォーマットには収まらない。
第8章:言葉を取り戻すことは、未来を取り戻すこと
言葉を変えることは、世界の見え方を変えることだ。
「AI人材になろう」ではなく、「AIを活用して、どんな課題を解決したいか」を語ろう。
「副業人材として活躍しよう」ではなく、「自分のスキルで社会とどう関わるか」を考えよう。
そうした言葉の再設計を、私たちは今こそ始めるべきだ。
おわりに:人は「材」ではない
「〇〇人材」という言葉がはらむ違和感の正体。
それは、“人”という存在の多面性と物語を、ラベルで矮小化する暴力性にある。
人は部品ではない。タグでもない。
人は、問いと選択と感情と関係性によって生きている。
そのことを忘れない社会であるために、
私たちはもっと、人間を「材」ではなく「者」として語る言葉を大切にすべきだ。
そしてできれば、誰かに求められる前に、
自分自身の声で、未来を語れる人でありたい。